京都学派とは(ver.2014.10.10)

京都学派は京都帝国大学文学部哲学教室の西田幾多郎,田辺元を中心にして大正・昭和期に形成された日本近代思想史を代表する哲学者集団である.「京都学派」という名称は,他の学者集団に対して使われることも多く,また,「本家京都学派」とでも呼ぶべき京大文学部の京都学派の場合でさえ,その解釈は様々である.たとえば,京都学派の哲学を「無の哲学」と解釈する立場に立てば,マルクス主義の立場にたつ戸坂潤は,京都学派の批判者ではあっても京都学派のメンバーではない.しかし,一方で,戸坂や三木清などを京都学派左派と呼ぶ人もいる.

本アーカイブでは,「京都学派」という言葉を思想の傾向ではなく人的つながりで捉えて,「西田・田辺という二代の京都帝国大学哲学教室教授のもとに学び,時に対立しながらも互いに影響を与え合った思想家たちの集団」と定義する.具体的にメンバーをあげれば,中心となった西田幾多郎,田辺元,その西田・田辺に学びながら独自の思想を育み,時には師に影響を与えることもあった,務台理作,三木清,戸坂潤のような人たち,そして,京都学派最後の世代,西谷啓治,高山岩男,高坂正顕,下村寅太郎たちである.

務台,三木,戸坂を重要なメンバーとして挙げているように,この「京都学派の定義」は,思想傾向の近似性ではなく,反発という関係も含めて思想家と思想家の直接の人間的関係性に注目する思想史的なものである.本アーカイブが「京都学派」と呼んで注目しているものは,1910年の西田幾多郎京都帝国大学文科大学助教授着任に始まり,1945年の西田の死去と田辺の京都帝国大学教授退官で,そのピークが終わりを迎えた,西田・田辺を中心とした多数の思想家たちの濃密な交流のダイナミズムなのである.

このような視座からは,西田・田辺に教えを受けたのでも,強い影響を受けたのでもないが,彼らの京大文学部における同僚であった波多野精一,九鬼周造,和辻哲郎のような人たちも,さらには,田辺の元に哲学を学んだキリスト教神学者北森嘉蔵、さらには西田の講義でラッセルに接し、それに傾倒したと言われる谷川徹三のような人たちが,その視界に入ってくる.

京都学派の代表的思想家たち

京都学派の代表的思想家たち,そして,その周辺の思想家たちの簡単な紹介.(より詳しい紹介は京大文学研究科,日本哲学史専修WEBサイト参照) 以後,高山,高坂,務台,波多野,北森,などを追加予定.

西田幾多郎

明治3年5月19日石川県河北郡宇ノ気に生れる.金沢第四高等学校中退,東京帝国大学選科卒業.四高教授等を経て京都帝国 大学教授.明治44年刊の『善の研究』以下,多数の著作を発表.周囲に有能な同僚,門下生を集め,所謂「京都学派」の基礎を築いた.昭和3年退官後も,厳 しい時代の中で思索を続けたが,終戦の直前,昭和20年6月7日逝去. (京大文学研究科,日本哲学史専修WEBサイトより

田辺元

明治18年2月3日東京神田に生れる.第一高等学校理科卒業後,東京帝国大学理科に入学するも文科哲学科に転科,卒業.東北帝国大学講師を経て,大正8年西田幾多郎の招きにより京都帝国大学文学部助教授に就任,昭和3年西田退官の前年に教授に昇任.西田との相互批判の中で独自の思想を形成してゆくと共に,多くの門下生を育て,「京都学派」の基礎を築く.昭和20年終戦の直前に退官,群馬県北軽井沢に隠棲.その後も意欲的に思索を続けたが,昭和37年4月29日逝去. (京大文学研究科,日本哲学史専修WEBサイトより)

九鬼周造

1888(明治21)年,男爵九鬼隆一の四男として東京都芝に生まれる.第一高等学校をへて,1909年東京帝国大学文科大学哲学科に入学し,ケーベル博士に師事する.1921年に東京帝国大学大学院を退学後,足掛け八年に及ぶヨーロッパ留学に出発する.1929年に帰国後,京都帝国大学で教鞭をとり,西洋哲学の普及に努める.1941(昭和16)年,53年の短い生涯を京都で閉じた.九鬼は八年に及ぶヨーロッパ留学の間,リッケルト,フッサール,ハイデッガー,ベルクソンらから直接に哲学を学び,西洋哲学を深いコンテクストから理解することが出来る数少ない哲学者であった.その一方,長い渡欧は九鬼に日本文化への鋭い洞察をもたらした. (京大文学研究科,日本哲学史専修WEBサイトより). 九鬼は西田・田辺の同僚であり学生ではなく,その意味では「京都学派の思想家」ではない.

和辻哲郎

1889(明治22)年3月1日に兵庫県仁豊野(現在は姫路市)に生まれる.姫路中学校を経て,第一高等学校へ入学.その後,東京帝国大学文科大学哲学科へ入学. 『ニイチェ研究』(1914,大正3)『ゼエレン・キエルケゴオル』(1915,大正4)を上梓するなど,はじめは西洋哲学を研究していたが,しだいに日本の古美術や古代文化への関心が高まり,旅行の印象記である『古寺巡礼』(1919,大正8)がヒット.1925(大正14)年京都帝国大学文学部の倫理学講座助教授.このころから仏教倫理思想史,西洋の倫理学等の研究をはじめる.1927年ドイツ留学.1931年教授.1934年に東京帝国大学文学部倫理学講座教授.定年退官後,仏教哲学研究や文化史研究.1960(昭和35)年,心筋梗塞のため永眠. (京大文学研究科,日本哲学史専修WEBサイトより). 和辻は西田・田辺の同僚であり,その意味では「京都学派の思想家」ではない.また,その学風も異なる.

三木清

1897年兵庫県生まれ.一高在籍時に,西田幾多郎の『善の研究』に強い感銘を受け,京大で哲学を学ぶ.1922年からドイツに留学.ハイデガーから強い影響を受ける.1927年,法政大学の哲学科の教授に赴任.マルクス主義を哲学として理解するという三木の試みは日本近代思想史上画期的な出来事であり,当時の日本の思想界に大きな反響を呼んだ.1930年に日本共産党への資金援助の嫌疑で検挙・拘留され,法政大学での職を退く.出所後の三木は哲学的論稿・著作を発表すると同時に批評家としても活躍.近衛文麿の政策集団である「昭和研究会」に参加.そこで指導的な役割を果し,東亜共同体論を展開していく.1945年6月12日,治安維持法の容疑者をかくまったという嫌疑により検挙・拘留.戦争終結後の1945年9月26日,豊多摩拘置所で疥癬(カイセン)の悪化により獄死.享年48歳.(京大文学研究科,日本哲学史専修WEBサイトより)

西谷啓治

明治33年2月27日石川県に生まれる.第一高等学校を経て京都帝国大学文学部哲学科を卒業.昭和7年より同大学にて教鞭をとる.昭和12年より14年までドイツ留学.昭和22年占領軍の政策により京大教授の職を退き,同27年に再任する.昭和44年より45年まで米国テンプル大学客員教授として招聘される.同年勲二等瑞宝章を,昭和47年西ドイツのゲーテ・インスティトゥートよりゲーテ・メダルを授けられる.鈴木大拙によって創始された英文仏教思想誌『イースタン・ブディスト』の編集責任を引き受ける.平成2年11月24日逝去.西谷は,現代世界における最大の問題は「ニヒリズム」であるとし,「ニヒリズムを通してのニヒリズムの超克」という課題に取り組んだ.現在西谷の哲学は日本人のみでなく,多くの西洋人哲学者や宗教学者からも注目され,また近年ではアジア諸国の研究者の注目も集めつつある.(京大文学研究科,日本哲学史専修WEBサイトより)

戸坂潤

1900年(明治33年)東京神田に生まれる.第一高等学校を経て1921年(大正10年)京都帝大文学部哲学科に入学.1924年同大学院へ.1926年(大正15年)京都工芸学校,同志社女子専門学校講師.29年頃からマルクス主義研究を始める.1930年(昭和5年)共産党員を自宅に泊めたために検挙.1931年法政大学講師.1935年再び検挙され,法政大学免職.1938年(昭和13年)11月29日に検挙, 1940年12月保釈出所, 44年9月東京拘置所へ下獄.1945年5月空襲のため長野刑務所へ移送.7月栄養失調と疥癬のため急性腎臓炎を発病.8月9日獄死.戸坂は「京都学派」という呼称を最初に与えた人物.しかしながら西田,田辺らの戸坂の評価は高かったとされており,西谷啓治との親交もあつい.田辺が弁証法研究へ向かうきっかけをつくったのも戸坂,三木らとの対話であった.(京大文学研究科,日本哲学史専修WEBサイトより)

下村寅太郎

1902年(明治35)8月17日京都市に生まれる.第三高等学校を経て京都帝国大学文学部哲学科に入学.西田幾多郎,田辺元に師事する.ライプニッツ研究や,数学の哲学・科学哲学の分野で研究を開始する.1943年(昭和18年)6月から8月にわたって「野々宮朔」というペンネームで雑誌『知性』に「東郷平八郎」を連載.1945年(昭和20年)に東京文理科大学教授,1949年(昭和24年)に東京教育大学文学部教授となる.1956年(昭和31年)後年に思想の転機となったと語る,はじめてのヨーロッパ旅行に出る.以後,レオナルド・ダ・ヴィンチやアッシジの聖フランシス,スウェーデン女王クリスティナらの研究などを手がけ,ヨーロッパの「精神史研究」における業績を広げてゆく.1983年(昭和58年)に畢生の大著『ブルクハルトの世界』を上梓する.1995年(平成7年)死去(享年92歳).(京大文学研究科,日本哲学史専修WEBサイトより)